2019.08.12

8・14メモリアルデー水曜デモ1400回世界同時アクション 大阪  性暴力を許さない女の会よりアピール

去る8.12、日本軍「慰安婦」間題・関西ネットワーク主催のイベント「8・14日本軍『慰安婦』メモリアルデー 2019/大阪 ~希望のバトンをつなぐ~」で性暴力を許さない女の会からアピールをしました。以下に報告します。

さて、昨夜も全国各地でフラワーデモが開催されました。私は初めて開催される京都のフラワーデモに行ってきました。5月11日以降、参加者の多くが「もうだまってられない」と思って集まって来ているのを感じています。ご存知の方も多いかと思いますが、今年の3月、フツーに考えても「それ、おかしいんとちゃうん?」と思うような性暴力無罪判決が立て続けに4つも出たためです。フツーに考えておかしいと思える、その4つの判決のうち2つを紹介します。

 

1つ目は、福岡地裁久留米支部が出した「準強姦で起訴の男性会社役員に無罪判決(2019/3/12)」というものです。「準強姦」というのは、薬やお酒を飲まされたり、あるいは障がいがあるなどして被害者が抵抗できない状態だった場合の強姦罪で「準」がつくけど、別に強姦罪より軽いわけではありません。

裁判官は「女性はテキーラなどを数回一気飲みさせられ、嘔吐しても眠り込んでおり、抵抗できない状態だった」と認定しました。その上で、女性が目を開けたり、何度か声を出したりしたことなどから、「女性が許容している、と被告人が誤信してしまうような状況にあった」と判断しました。被害者からしたら、ありえないような判決です。実は、強姦、強制性交等罪というものは故意犯でないと罰せられない。つまり、相手が合意していないのがわかっていながら、わざとやったんだ、無理やりやったんだ、ということが立証できないとダメなんです。察しのよい方はお気づきでしょう。「なんや、そしたら鈍感なヤツや嘘つきほど無罪になりやすいんやん」と。そうです。私も同感です。

 

2つ目は、名古屋地裁岡崎支部が出した「娘と性交、父親に無罪判決 (2019/3/2)」です。

虐待によって抵抗できない精神状態だった実の娘(当時19)と性交したとして、準強制性交等罪に問われた父親の被告に、名古屋地裁岡崎支部は無罪判決を言い渡したというものです。

地裁は、性交については、娘の同意はなかったと認定しました。裁判官は「被告人が長年にわたる性的虐待などで、被害者(娘)を精神的な支配下に置いていたといえる」とした精神科医の鑑定意見は一応認めながら、法的判断は別である、抗拒不能とまでは言えないとしました。よって、無罪。以上。え?ちょっと待って。いったい何を根拠に精神科医より自分の判断が正しいとするわけ?その説明はなく、全く意味がわかりません。

それで、この父親の方は裁判でなんと言っていたかというと「同意はあった」、「仮に抵抗できなかったとしても、(自分には)そういう認識はなかった」と主張していたのです。それで無罪にした。ということは、つまり、裁判官は、娘が同意してないことをわかった上で「父親の言うことは筋が通っている」と認めたも同然なのです。この判決から世間が受け取るメッセージは何か?「小さい頃から娘に性的虐待しておけば、おとなになっても抵抗できないので、合法的にレイプできる」ということです。フツーに考えておかしくないですか。法律家の中には、この判決を丁寧に精査して出した判決だと評価する向きも多いようです。しかし、もし、この判決の論理を強盗事件に置き換えてみるとどうなるでしょう。

「強盗がいくら脅したとしても、刃物などによって即命を失う危険性があったという状況でもない限り、抵抗できたはずだ。縛られてもいないのに、なぜ逃げなかったのか。金品を全部あげてもいいかなという気があなたにはあった、というふうに被告人が思ったとしても仕方ない。精神科医の意見?いやいや、ここは私の判断で決めるところだから。被告人は無理やり金品を奪ったのではないから、無罪ね」、みたいな判決なんですね。強盗罪の判決でこんなの出したら、裁判官の方がどうかしている、もしくは、この判断がまっとうだというのなら、その刑法自体がおかしいんだから、とっとと変えろという話になりますよね。

 

さて、フツーの人がフツーに考えておかしいこれらの判決。実は可視化されて最近世の中に知れ渡るようになっただけで、私たちから見たら変な判決なんて昔からごまんとありました。そもそも裁判にすらならない被害がほとんどで、今もそうです。ここ10数年で、レイプ犯罪の起訴率は60%台から36%ぐらいにまで落ちてきています。2009年と2011年に性暴力事件の最高裁無罪判決が出て以来、客観的証拠が重視されるようになりました。冤罪を防ぐには、客観的な証拠は確かに大事です。

しかし、性暴力被害において、客観的証拠がない、物的証拠がないことが多いのは「基本のキ」です。加害者の精液が検出されても、それは性交があった証拠なだけであって、「合意の上だった」と言われたら終わりです。加害者は、誰にも見られないところや密室を選んで計画的に犯行を行います。日本軍性奴隷の問題でも、物的証拠はあるのか、客観的証拠はあるのか、証拠〜!証拠〜!と言いますが、そんな証拠があるとしたら加害者が持っているでしょう。犯行時、写真やビデオをとっているのは加害者です。あとで自分で見るためでしょう。「誰かにしゃべったらこれを流すぞ」と被害者を脅して口封じにも使います。そして自分の身が危なくなったら消去してしまうので、被害者の手には入りません。

 

さて、客観的証拠に乏しければ、加害者と被害者、どちらの証言が真実かという話になります。そこで問題なのが、先ほどの無罪判決の例にあるような、「女性が本当に嫌だったのなら、必死で抵抗したはず、そうでないなら自分でも受け入れてたんだろう」ひいては「被害者の言っていることは不自然で、どっちかっていうと加害者の言っていることの方がわかる」というような「裁判官の経験則」と、そもそもの刑法の規定にある「暴行脅迫要件」です。「裁判官の経験則」は俗に言う「おっさんの経験則」です。と言っても私が勝手にそう言っているだけですが。一応ことわっておくと、男性=おっさんというわけではありません。女性でも頭の中が「おっさん」な人はいます。「おっさんの経験則」の「おっさん」が何を示すかは、私の話の主旨から忖度してください。

 

さて先日、伊藤詩織さんの民事裁判の2回目が行われました。北原みのりさんによる詳細な報告がネットで公開されましたので、内容をご存知の方も多いかと思います。

あれを読んで私が思ったのは、山口敬之、ここでは敬称略で呼ばせてもらいますが、山口の側って、本人も弁護士も、「おっさん」丸出しだな〜、裁判官も自分と同じ「おっさん仲間」だとふんでいるんだろうな〜ということです。山口が「性交」について述べたくだりはこんなのです。「詩織さんが繰り返し『私は不合格ですか』と言うので、正直寝て欲しかった、帰ってもらってもよかったけど、とりあえず黙って欲しかったので、なだめるために性交渉に応じた」と。山口の考えるストーリーは、彼女が酔っ払ってさらしてしまった失態をセックスでカバーしようとしたので、自分はそれに応じてあげたという筋書きなんですね。男性相手にトラブルが発生したらセックスして丸く収めようとする、そういう女が普通にいる、それが山口の「経験則」であり、裁判官もそれで話の筋が通っていると理解できるはずだと思っているのでしょう。実際は「そんな女はあんたらおっさんの頭の中におるだけ」です。

 

だいたい、女性が性関係を持っていいとか、持ちたいとか考えるのは、自ら安全だと判断した、気に入った相手あるいは気に入ったタイプの相手であるのが普通であって、女性が男性なら誰でもよいと思ってセックス、俗に「最後まで」というときに念頭に置かれるような性交に応じるということは、一般には極めて稀である、と、帯広畜産大学教授の杉田聡さんもおっしゃっています。

私の知り合いの女性に大学生の息子がおりまして、こないだその子にこんこんと言うて聞かせた、というのです。「あんたら男の子の性欲は強い、そやけど女の子も自分と同じやと思ったら、それは大間違いやで」と。息子は「ふ〜ん」といまいちピンと来てない。そこで「いや、だから例えばな、あんたらは風呂屋の番台に座ってみたいと思うやろ、女の子は思わへんねん」と言った。すると息子がものすごく驚いて「へええ!そうなんか!」と即座に理解したと。男子は女の裸やったら誰のものでも見たがるけど、女子は好きでもない男の裸なんか興味ないねん、見たくもないねんって、わかったというんですね。

しかし、この程度の理解もできてないのが「おっさん」。「おっさん」は、AVなどに出てくる女性、少し刺激するとその気になる、誰とでもセックスしたがる女性がリアルで、本当だと思っているのかもしれません。

 

諸外国では、相手の同意を得るために具体的に何をしてどのように合意を得たか、行為者の方が説明しないといけないというふうに刑法を変えたり、相手が何も言わない場合は「ノー」であり、相手がイエスと言った場合のみを同意と認める「イエス・イズ・イエス」を基本にしています。同意のない性交はレイプという考え方が当たり前になっているのです。日本の刑法は諸外国より40年以上遅れています。その考え方の根本的な違いは何かと言うと、日本では、「被害者(その多くは女性)は嘘をつく」が前提になっているけど、先進諸国では「ダメージの大きい性暴力の被害者が嘘をつくわけがない」「同意を確かめない加害者が悪い」という大前提から始まるところです。

 

日本では、「この人痴漢です!」と言えば、「ここに冤罪女がいるぞ!」と言われるし、横山ノックのセクハラを訴えた女子大生は「ハニートラップだ」「政治的陰謀だ」と非難されたし、伊藤詩織さんは「夜の仕事をしていた女だ」「枕営業に失敗したからレイプされたと騒いでるだけ」と誹謗中傷されました。今回のあいちトリエンナーレの一件では、またしても大阪市の松井市長が「慰安婦の問題は完全なデマ」と発言しています。戦時下性奴隷の被害者であるハルモニもまた「嘘を言っている」「高額のお金をもらっていた職業売春婦だ」などと攻撃され、それらはこれまでずっと行われてきた、現在の日本の性暴力被害者へのバッシングととても似ています。

 少女像の展示中止の問題は、「表現の自由」の問題として語る人が多くて、確かに「表現の自由」の問題ではあるんだけど、なぜか大抵「私は別にあの作品が好きというわけではないが、表現の自由は守らねば」みたいに言うんです。その言い方には何かしっくりこないものを感じます。私は今回の展示中止は、第一に、性暴力被害者への「黙れ」攻撃だと思います。性暴力被害を見て「私は中立です。どっちが好きとか嫌いとかはありません」と言うのは、傍観者の態度であって、いじめ問題と同様、傍観することは加害者に協力しているのも同然じゃないかという気持ちになります。

 

この件で一つ、思い出したことがありました。

河村市長は「(少女像は)どう考えても日本人の心を踏みにじるものだ」と言い、松井市長は「(少女像は)我々の先祖がけだもの的に取り扱われるような展示物」「日本人を蔑み陥れる」と言いました(いやいや、なんであんたらが勝手に日本人の代表を名乗ってんねん。私は許可してへんで)。作品を知らない人が聞けば、どれだけ恐ろしげな展示かと思いますよね。椅子に座っているだけの女の子を、ええ年こいたおっさんたちがそろいもそろってこんなに怖がるとは。

 

塀の中の性暴力加害者にインタビューしている研究者・牧野雅子さんが、加害者の語りには、こういう特徴があるとおっしゃっています。

・自分の加害行為と向き合うことは加害者にとっては恐怖である。彼らは一様に「性犯罪はいけないことだ」と言うが(信じられませんが言うそうです)、そこに自分のしたことは含まれていないし、そのことを矛盾とも思わない。加害者は一般論については威圧的に語るが、「私は」を主語にして話してくれと言った途端、一言も話せなくなる。

・加害者が二度と顔を合わせたくない相手・ナンバーワンが被害者である。

 

安倍首相や河村市長、松井市長とそっくりではありませんか。横山ノックは刑事裁判でも民事裁判でも負けましたが、被害者には一言も謝っていません。橋下徹は面会に来たハルモニから逃げました。

 

性暴力加害者のメンタリティーには、「謝ったら死んでしまう」病というものがあるのかもしれません。それどころか、「謝るくらいだったら死んだほうがマシ」と思うらしい加害者も実際にいます。2007年に、長崎の平和式典を取材中だった記者を長崎市役所の部長がレイプしました。そして部長は市の調査の直後に自殺しました。一方、これは事故死ですが、2017年に痴漢を疑われ、線路に降りて電車に轢かれて死亡した男性がいました。この時、当初ネットでは被害女性がバッシングされ「冤罪だ」「女は殺人者」「痴漢を疑われたら、殴って逃げても正当防衛」「殺しても正当防衛」などという言論が飛び交いました。これはヘイトスピーチです。ところが、のちに男性のカバンから、女性がかけられた液体と同じものが出てきて、被疑者死亡のまま書類送検されたのでした。

 

というわけで、みなさん、加害者の方を見かけたら、こう言ってあげてください。

「死んだらあかんで〜、被害者の人に迷惑や」と。

「ごめん言うても死ねへんで」

「被害者に向き合って、生き直したらええだけや」

安倍首相や、忖度市長たちにも、そう言ってあげましょう。

 

「おっさんの経験則」ではなく、被害当事者の経験を聞け、そして尊重せよ、というフラワーデモに今後も参加し、刑法が改正されるまで粘り強くやっていきたいと思います。

水曜デモを続けてこられた皆様方を心からリスペクトします。

どうもありがとうございました。

 

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